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南北朝時代~室町初期のファンサイト。人物紹介、関連書籍、史跡など。
【人物紹介】夢窓 疎石(むそう そせき)
夢窓 疎石(むそう そせき)   1275(建治元)-1351(観応2、正平6)
夢窓疎石

禅僧。伊勢の人。

はじめ天台・真言を修学、のち禅宗に帰し一山一寧・高峰顕日に就学。
春屋妙葩位下の俊秀を養成して臨済宗の黄金期を築いた。

甲斐恵林寺、京都天竜寺などを建立。南禅寺住持2回。
北条貞時、後醍醐天皇、足利尊氏など公武の篤信を受け、7代の天皇から国師号を贈られた。
また、西芳寺・天龍寺・瑞泉寺・恵林寺などに残る卓抜な造園技術は勇名。

著書に『夢中問答集』『臨川寺家訓』など。

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夢窓国師は時の権力者の帰依を受け、臨済禅の黄金時代を築いた名僧です。
七代の天皇より賜ったことになるので、世に七朝国師と称されています。

彼は後醍醐天皇の冥福を祈るための天龍寺の造営や、安国寺・利生塔の建立に深く関与し、その業績には多大なるものがありました。

またその門下生には儀堂周信、春屋妙葩、絶海中津ら多くの俊秀が輩出しました。

そんな夢窓の教えをうかがい知る著作に『夢中問答』があります。
これは足利直義の質問に対し、禅の要旨を優しく丁寧に教えたものです。

ちなみに夢窓への質問から、直義も禅に対してかなりの知識を持っていたことが判ります。
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テーマ:歴史上の人物 - ジャンル:学問・文化・芸術

【人物紹介】儀堂 周信
儀堂 周信(ぎどう しゅうしん)    1325(嘉暦元)-1388(暦応元・元中6)
義堂周信


南北朝時代の禅僧。土佐の人。号は空華道人。
絶海中津と共に五山文学の双璧と言われる。

はじめ比叡山で密教を学んだが、禅にひかれて17歳で夢窓疎石に参ず。
1359年、足利基氏の招きで鎌倉円覚寺に住し、66年善福寺に主となる。

1379年、足利義満の命で帰京し、建仁寺・等持院に住し、1386年南禅寺住持になる。
これ以降、南禅寺は五山の上に置かれた。

著作に『語録』『空華集』『東山空和尚外集抄』『禅儀外文集抄』などがある。
1389年4月4日に64歳で寂す。

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彼の号「空華」は、「現実にはない華が空中に見える」眼病によるものといいます。
儀堂は政治に関わることを好まず、清廉高潔な生き方を望みました。

彼は約20年に渡って東国にあるのですが、その折鎌倉公方足利基氏とは深い友誼がありました。
基氏が28歳の若さで病没すると、儀堂が導師となってその葬儀一切を司っています。

その後、基氏の妻から子育ての仕方について指導を請われると、
 『仏を敬い、僧を尊び、民を恵まば国家令せずして治まらん』と答えています。

また基氏の子、氏満と3代将軍との不和が表面化した時は、その仲を仲介しています。
彼の詩風は雄壮健峻、幽遠古淡で、その作品は中国人をして、自国の作と思わせたそうです。

知事選ポスターであのヒトを発見!
こんにちは、三日月です。

今日6月18日(木)は、私の住む兵庫県での知事選の告示日。
「あ~選挙は来月なのね~」と見かけたポスターを何気なく眺めました。

今年のポスターは、観光大使「はばタン」はじめ、
兵庫の市町村のゆるキャラたちが勢ぞろい。
ポップでキュートな仕上がりです。

兵庫知事選1

いろんなキャラクターがいるんだなぁと目を走らせていると、
あるキャラに目が引き寄せられました。

兵庫知事選2

え、円心くん?・・・ってもしや赤松円心!?

あ、赤松円心がこんなかわいい小坊主に・・・!
ええええええええ!

大河ドラマ「太平記」でのおっさんのイメージしかない私にとって、かなり衝撃的な絵柄。
こんなに可愛くていいの!いいの!?

調べたら、「円心くん」は白旗城跡もある上郡町のイメージキャラクターなんですね。
上郡町観光案内所には円心くんのストラップや貯金箱、
ブローチからキーホルダーまでズラリと並んでいるじゃありませんか!
 
う、うらやましい・・・
足利一族グッズとか鎌倉府グッズなんて
ほとんどないのに・・・

円心の愛されように、だいぶ嫉妬した一日なのでした。

テーマ:社会 - ジャンル:政治・経済

【人物紹介】賢俊 
賢俊  (けんしゅん)  1299(正安元)-1357(延文2、正平12)
賢俊

真言宗の僧。菩提寺大僧正と称される。
権大納言日野俊光の子。三宝院賢助の弟子。兄弟に日野資朝、資名がいる。

1320年、22歳で受戒。
1336年醍醐寺座主に補せられ、東寺長者、根来寺座主を兼ね、西走した足利尊氏に従って策謀。
尊氏に光厳院の院宣を受けさせ、京都復帰の足がかりを作ったため、以後尊氏の信任を得て宗教界・政界に活動する。

1357年、59歳で示寂。弟子に光済らがいる。

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九州落ちした足利尊氏に、光厳院の院宣をもたらした人、賢俊。

彼は醍醐寺でもっとも勢力を保持した二流の内のひとつ三宝院流に属し、文観の報恩流と覇権を争っていました。

建武の新政時には醍醐寺は文観の統治下する所となり、賢俊は不遇をかこっていましたが、南北朝分裂後は足利尊氏の護持僧となり、仏教界に君臨して大きな影響力を奮うようになるのです。

醍醐寺座主は22年、東寺長者は15年という異例の長期にわたり、
 「栄耀至極、公家武家権勢比肩の人無し」(『園太暦』)と評されています。

のちの将軍家と日野家との密接な関係とは、彼の活躍によって定まったのです。
 (ちなみに8代将軍義政の正室日野富子は、彼の兄弟日野資名の子孫です)
【雑記】17年という長さを思う
先日、足利事件の菅谷さんが釈放されましたね。
冤罪で逮捕された菅谷さんの失われた17年に胸を痛めながらも、私は頭の隅でもこう感じていました。

「17年ひと昔だなぁ・・・『太平記』もそりゃ知名度低くなるよね;」

そう!
われらが南北朝時代唯一にして最大のドラマ「太平記」は1991年の作品なのですよ!


主演の真田広之さんも20代の若者でしたね・・・

毎週大コーフンしてテレビにつっこみまくっていたのが昨日のことのようですが、もう17年。
22歳以下の方は、記憶すらないのですね。あらびっくり。

そういえば最近TSUTAYAに行ったのですが、
太平記のDVDはまったく貸し出されてなかったです。

うう。さみしい。

でも先月まで時代劇専門チャンネルで放映されてたので、
私の知らないところで第2次太平記ファンが生まれていたことと思います。

若者の諸君!戦国時代もいいけど、南北朝はもっと面白いよ☆
みんな好きになれ!(願望)

とりあえず、情熱の火の強弱はあれど、
17年変わらず南北朝時代が好きな自分へ、
ささやかながらエールを送りたいと思います。

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