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【人物紹介】上杉朝房
上杉朝房(南北朝の武将)イラスト

上杉 朝房(うえすぎ ともふさ)生没年不詳

犬懸上杉氏。足利氏満の代の関東管領。
幼名幸松丸。通称三郎。

父は上杉(犬懸)憲藤(憲顕の弟)、母は朝定の姉妹。
妻は上杉憲顕の娘。子供なし。

父の上杉憲藤が1338年に北畠顕家と戦って摂津で討死した時はまだ幼少だったため、弟幸若丸(朝宗)と共に家臣の石川入道覚道に養育された。

観応の擾乱では憲顕と共に直義党となり、1363年上杉憲顕と共に幕政復帰。
1364年上総守護、ついで1366年信濃守護。

1369年憲顕の死後,従兄弟能憲(よしのり)と共に関東管領となり、「両管領」と呼ばれた。

1370年関東管領を辞任。
1377年ごろ上京し、91年に京都の四条で没したと言われるが不詳。

◆ 三日月的考察 ◆

父上杉憲藤の没年から、大体1333-37年生まれ。
その名前から推測するに、叔父の上杉朝定の庇護下で成長したかと思われます。

そのためか上杉氏の中でも厚遇され、1343年の天龍寺の記事で、若年ながら行列に参加していることが「太平記」に記されてます。
また、上杉憲顕の死後、その子能憲と並んで管領になるなどもしてます。

戦に関しても、1368年に憲春と共に武蔵平一揆に乱を鎮定するなど活躍していますが、彼はまだ30代前半の若さ(推定)で、能憲などからの再三に慰留にも関わらず、関東管領を辞して上洛しまいます。

その上洛前に僧の儀堂周信に、「戦の罪は誰に帰するのか」などと聞いていたという事が義堂の日記『日工集』に載っています。
あるいは常世が嫌になって関東管領の職を手放したのかもしれません。

彼には子がなかったため犬懸氏は弟朝宗が継ぎますが、その子の禅秀が鎌倉公方と戦って敗死(上杉禅秀の乱)、この家は衰えます。
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