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【人物紹介】護良親王
護良親王(南北朝期の皇子)イラスト

護良親王(もりよししんのう)1308-1335(延慶元~建武二)

父は後醍醐天皇。母は民部卿三位。第三皇子。

11歳で延暦寺梶井門跡の一門徒、大塔に入室。
「大塔宮」と称す。

後醍醐天皇が隠岐から脱出すると
山門の僧兵を率いて六波羅軍と戦うも敗北。

楠木正成の赤坂城に逃れ、さらに熊野や高野山などに潜行。

1332年還俗して護良と改名。
吉野で挙兵し、令旨を発行して各地の反幕府勢力の挙兵を呼びかけた。

建武新政下では征夷大将軍、兵部卿となった。
しかし足利尊氏と対立、その讒によって鎌倉の東光寺に幽閉される。

1335年中先代の乱の際に、尊氏の弟直義の部下淵辺義博によって殺害された。
享年28歳。 

◆三日月的考察◆

倒幕からわずか2年後で暗殺された事から、
悲劇の皇子として名高い護良親王。

その失脚の理由は本によってさまざまに推理されています。
  1 護良親王がその子興良天皇を帝位につけようという
陰謀を巡らしていたのが発覚したため (「保暦間記」)
 
  2 「護良親王が帝位を奪うために兵を集めている」と
尊氏が阿野廉子に密告、
     それを聞いた天皇が怒ったため (「太平記」)
 
 3 天皇が護良親王を使って尊氏を暗殺しようとしたが失敗、 
    それで罪を護良親王にかぶせたため (「梅松論」) 
      
 護良親王が足利方に引き渡された事を考えると、
梅松論の記述が一番妥当かと思われます。
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