南北朝時代~室町初期のファンサイト。人物紹介、関連書籍、史跡など。
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【人物紹介】楠木正行
楠木正行(南北朝の武将)イラスト

楠木正成の長子。南北朝の武将。多聞丸。

後醍醐天皇の末世には帯刀に任官、また左衛門少尉を兼ねる。
父の死を受けて摂津守、河内守にも任ぜられる。

父正成亡き後は、楠木の棟梁として一族を率いる。

1347年8月、紀伊隅田城を攻撃。
のち9月には河内の藤井寺、11月には住吉(阿倍野)と転戦する。

やがて北朝より派遣された高師直軍との決戦を前にして、吉野の行宮に参上して出陣の由を奏したのち、

 返らじとかねて思へば梓弓 なき数に入る名をぞとどむる

という辞世の歌と一族の交名を如意輪堂の扉に鏃を使って刻んで出陣した、と伝えられている。

1348年正月、四条畷の合戦で敗れ、弟の正時と刺し違えて自害した。

没年は太平記によれば23歳(又は25歳)になるが、不詳。

<三日月的考察>

戦に強く、心ざま優しく、で病がちと、愛される要因を多分に含んだヒト。

著名なエピソードとしては、まず「桜井の別れ」。

1336年湊川の戦いに同行していた正行を、 父の死後南朝のために働くのが第一の孝行だと諭して
河内に帰らせる話。歌にもなっていますね。

それから、阿倍野合戦で渡辺橋から河中に落ちておぼれた敵兵を救助して薬を施して傷を治してやった事とか、あとは美女・弁内侍との純愛が挙げられるでしょうか.。
 
こうした美談にいろどられている正行も、幕府軍の圧倒的な大軍にはかなわず、四条畷で あえない最期をとげてしまいます。

挙兵してから討死までがたった5ケ月なのが、 愛惜の思いにさらに火を注ぐ感じですね。

彼のお墓は足利義詮たっての希望で、京都の宝キョウ院に義詮と並んで建っています。
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