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【人物紹介】楠木正儀
楠木正儀(南北朝の武将)イラスト

楠木 正儀(くすのき まさのり) 生没年不詳

南北朝時代の武将。
楠木正成の三子。楠木正行の弟。帯刀。左衛門尉。

兄正行の死後、河内を拠点として楠木を率い、また南朝方の武力の中心として活躍する。

1350年12月、足利直義が南朝に和議を申し入れた際、両朝合一に尽力したが結局実現しなかった。

1352年閏2月、足利尊氏が南朝に帰順したのを機に北畠顕能、千種顕経らと共に京都に進撃、一時占領した。

以後、1353.55、61年にも京都の一時奪取に成功している。

1360年、細川清氏らと河内、和泉に戦うも、河内赤坂城が落城したため後退を余儀なくされた。

1367年、南北両朝の和をはかって成らず、1369年、幕府管領の細川頼之を介して足利方に降った。

1382年、細川頼之の没落にともない、再び南朝方に帰った。

1388ー89年のころ没したといわれている。

<三日月的考察>

楠木正儀は『太平記』では、父や兄が絶賛されている陰でけちょんけちょんな扱いを受けている
可哀想な人です。 

『太平記』巻37には南朝方が京都を占領し、正儀が敵の佐々木道誉の部屋に踏みこんだ時、あたかも貴賓を招くような酒肴を用意して逃げました。

その道誉の行為に情けを感じた正儀が、京都を撤退する時に道誉の家を焼くどころか、前にもまして上等な酒肴や秘蔵の鎧、白銀づくりの太刀などを残していった...っていう正儀の器量ぶりを表す粋なエピソードがあるのです。

しかし『太平記』はここで正儀の太刀と鎧を奪った道誉の老獪ぶりを誉めてるんです(涙)

でも京都の幕府と目と鼻にある河内で、討たれることなく数十年に渡って一族を守り、南朝を支えてきた功績は決して小さいものではないと思われるのですが。

彼は父、兄以上に現実即応型の人間と思われ、それだけに南北両朝の和睦の必要性を痛切に感じていたのではないかと考えられます。

そのためたびたび和平に際して尽力しています。
(彼主導のもとでは結局実現しませんでしたが)
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