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【人物紹介】足利基氏
足利基氏(南北朝の武将)イラスト

足利 基氏(あしかが もとうじ)1340-1367(暦応3・興国元~貞治6・正平22)

初代鎌倉公方。父は尊氏、母は北条登子。義詮の同母弟。

49年、兄義詮の上洛に代わり9歳で初代鎌倉公方として下向。
観応の擾乱時には父と叔父の争いを嘆き、安房に出奔。
やがて連れ戻され、元服したその翌日に叔父直義は死去。この時基氏13歳。

擾乱後は畠山国清を執事とし、入間川に陣を敷いて東国の治安に務めた。
そのため「入間川殿」と称される。58年新田義興を謀殺し、その与党を帰属させる。

1363年専権によって諸将の信頼を失った畠山国清を追放。
元直義党の上杉憲顕を復帰させた。

流行病のため28歳の若さで死去。号は瑞泉寺殿。
 
基氏は禅僧儀堂周信に帰依し、彼にその人柄を
 「仏法政道、その他管弦・諸伎藝好まないものはなかったが、
  世俗が好む田楽は生涯一度も見なかった。
  なぜなら伯父大休寺殿が戯場を愛さなかったからで、
  政道の妨げになるからである」(「日工集」)と評されている。

<三日月的考察>

10才上の兄の義詮とは対照的に、聡明との評価が高い基氏。
彼は上の二人とは違って、父尊氏が将軍となってから産まれた、いわゆる「将軍の若君育ち」。

しかも1340年代は比較的南北朝の争乱の小康期に当たり、幼年期の基氏が何一つ不自由なく過ごしたであろうことが容易に想像出来ます。

そんな少年がはじめて直に体験した戦が、あの「観応の擾乱」・・父尊氏と敬愛する叔父直義の内訌でした。

兄弟相克の愚行をまの当たりにした基氏が、義詮に異心なきことを示すため常に兵馬を幕府に提供
したりして観応の擾乱の二の舞を避けたのは、心情的に自然な事と思われます。
 
基氏は畠山国清の追放後、上杉憲顕など旧直義派の武将を登用して、関東経営の基盤を固めました。
 
しかしこの政策は幕府との間に亀裂を生む可能性を秘めており、基氏はその対応に苦慮しつづけました。

そんな彼がわずか28歳で病死した時、「難太平記」には、基氏は幕府と鎌倉府の対立激化を憂慮して、自ら死を早めた、という噂を記しています。
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