南北朝時代~室町初期のファンサイト。人物紹介、関連書籍、史跡など。
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【人物紹介】絶海 中津
絶海 中津(ぜっかい ちゅうしん) 1336(延元元・建武3)-1405(応永12)
絶海中津

臨済宗夢窓派の禅僧。土佐高岡郡津野の人。
別に蕉堅子、蕉堅道人と号する。

1348年に上洛して天龍寺に喝食となる。
天龍寺に入り夢窓疎石について受戒。

1368年入明。抗州の中竺寺・雪隠寺などに入り、76年帰朝。
その後は天龍寺の春屋妙葩・性海霊見のもとに身を寄せ、80年健仁寺新任の儀堂周信と再会。
天龍寺首座、甲斐慧林寺住持。

1384年、3代将軍足利義満の忌諱に触れ、摂津銭原に隠れる。
のち誤解が解けて迎えられ、等持院・相国寺住持を歴任。

漢詩文集に『蕉堅稿』『絶海和尚語録』がある。

◆ 三日月的考察 ◆

春屋妙葩の亡き後はとりわけ義満の信任が厚く、明徳の乱を平定したのは、絶海の法衣の功徳によると義満が言った事から、急にその名が高くなりました。

義満・義持・伏見宮栄仁親王をはじめ公武の帰依を受け、又一宗内に与えた影響も大きなものがありました。

また彼は漢詩文に優れ、儀堂周信と共に五山文学の双璧と称されました。
明に渡り季潭・用貞ら大慧派の人々に歴参し、その俗的詩文の風と四六文の技法を身につけ、五山に新風を生んでいます。
【人物紹介】満済 
満済  (まんさい(まんぜい))    1378(天授4・永和4)-1435(永享7)
満済

真言宗の高僧。醍醐寺座主。
藤原師冬の子。母は足利義満室業子に祇候、白川殿と号した。二条良基の甥。

3代将軍足利義満の猶子となり、三宝院賢俊に入室。
三宝院25世門跡となり、1395-1434第74代座主。
その間東寺市の長者をも務め、1428年准三后。
(三宝院門跡として最初の准后。)

義満・義持・義教の信厚く、幕政の枢機に参画する。
『満済准后日記』筆者。

◆ 三日月的考察 ◆

 「黒衣の宰相」と称された彼の活躍は、主に室町時代に入ってからになります。
満済は歴代の将軍に尊崇され、護持僧として公武の祈祷に励んだだけでなく、幕政にも関与しました。

ことに将軍義教の嗣立に中心的役割を果たしたため義教の厚い信任を受けました。
義教は将軍の親裁権を強化し有力大名の抑圧に努めたが、満済の意見は重んじて、重要問題についてしばしば諮問した、といいます。

冷静、的確なその判断は、義教の処置が偏頗や極端に走るのを防ぐのに役立ちました。

彼の日記は正確・克明で、15世紀前半の幕政・外交・および社会情勢を知る上で貴重な根本資料になっています。

そんな彼をなぜここで取り上げるのか、と言えば、好きな小説で出ているからなんです。

獅子の座―足利義満伝 (文春文庫) 平岩 弓枝

彼の登場は義満の晩年で出番は少しなのですが、とても美味しい役どころとして登場します。

この本を読むまで腹黒そうなおっさんというイメージしかなかったのですが、ちょっとかなり変わりました!

この青年期を経て、「黒衣の宰相」となっていくのか、と思うと感慨あらた。ぜひご一読を。
【人物紹介】高 師夏
高 師夏(こう もろなつ)  1339-1351(延元4・暦応2~観応2・正平6)
高 師夏

父は執事の高師直、母は二条前関白の妹。武蔵五郎。

師夏は父高師直が母を盗み出して産ませた子供であるという。
容貌人に優れ心ざまも優しく、足利尊氏に寵愛された(「太平記」)

観応の擾乱では父と共に直義方と戦うが敗れ、1351年2月26日、父師直を初めとする一族共に討たれた。

享年13歳。

◆ 三日月的考察 ◆

たいして活躍もしてない彼をなぜ載せているかというと、「太平記」での師夏の死の場面が個人的に好きだからなんです。(以下は概略)


2月26日、武庫川で一族が次々と斬殺される中、幼い彼は西左衛門四郎という者に生け捕られ、そこで命が惜しくば出家をせよと勧められる。

すると師夏は父師直がどうなったか問い、もはや討ち取られたと聞くと、

「では誰の為に命を惜しみましょう。死出の山など共に渡りたいと思うので、急いで首をお取り下さい」

と死を請うたので、西は泣いてその死を惜しみつつ、念仏を10篇ばかり唱えて斬った。
 
・・もろに「平家」敦盛の影響大って感じですけどね。
何だか胸に残るシーンなので。
未来多い少年の死って、なんとも痛々しいです。
【人物紹介】高 師泰
【人物紹介】高 師泰
高 師泰(こう もろやす)  生年不詳-1351(?~観応2・正平6)
高 師泰

足利尊氏の執事、高師直の弟。

兄師直と共に尊氏に従う。
1336年には新田義貞を越前金崎城に攻めてこれを落としいれ、その後東国に転戦して上洛。

1348年には兄師直と共に楠木正行を河内四条畷に破る。

1350年尊氏・直義が不和となるや、直義党の足利直冬を攻めて中国を転戦。

翌年足利兄弟の講和成立の際、将士に憎まれ、兄と共に摂津武庫川で殺害された。

◆ 三日月的考察 ◆

高師泰は兄師直とセットで活躍、主に軍事面で勇名(悪名ともいう)を馳せた人物です。

侍所頭人を務め、執事である兄師直と共に幕府を支え、時には尊氏を凌ぐほどの専横を
見せました。

彼個人のエピソードもばさら的なものがほとんどです。

公家の侍二人が、人夫たちが酷使されている山荘造営の現場を通りかかって
 「あんなに痛めつけなくても」と非難すると、それを聞きつけた師泰が
 「人夫が可哀想なら奴らを使え」と二人を呼び戻して終日責め使った、などです。

でも師直と同じく、「太平記」でのイメージが先行しているのが実情。ちょっと可哀想かも。
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