南北朝時代~室町初期のファンサイト。人物紹介、関連書籍、史跡など。
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【人物紹介】楠木正成
楠木正成(南北朝の武将)イラスト

楠木 正成(くすのき まさしげ) 生年不詳-1336(延元3.建武3)

河内の土豪。父は、正遠と伝えられている。
幼名多聞丸。左衛門少尉。「三木一草」の一人。

1331年、隠岐に流されていた後醍醐天皇が笠置に行幸したのを聞き、河内国金剛山麓の赤坂城に篭城して鎌倉幕府軍と戦い、敵軍に熱湯を浴びせ悩ませた。

その後城を焼き、自分も焼死したと見せかけて脱出した。
1332年、護良親王の令旨を奉じて湯浅定仏を襲撃。
金剛山に千早城に築き、再び幕府軍を迎え撃った。

建武政権が成立すると倒幕の恩賞として従五位に叙され、検非違使左衛門少尉に再任、さらに摂津・河内の国司に任命された。

しかし勢力を回復した尊氏軍が九州から東上、これを備中で迎え撃った新田義貞が敗れると、援軍として出陣することを要請される。

この時彼は「義貞を京へ召還し、天皇は延暦寺へ臨幸し、尊氏を入京させて包囲攻撃する」という策を献じたが容れられなかった。

1336年5月25日、湊川の戦いで足利軍に敗れ、弟正季と刺し違えて自刃した。

<三日月的考察>

彼は南北朝では五指に入る有名人ですが、そのわりには資料が乏しく、謎に満ちています。

正確な出自や出身もまだ断定されるには至っていないし、正成が登場したきっかけからして、後醍醐天皇が見た夢といいますし。

そんなこんなで実像は闇の中なのですが、その人物評価は極めて高いです。

総じて登場人物に辛口なはずの『太平記』が「元来勇気無双の上、智謀第一なり」「正成程の者は未だ無りつる」と絶賛していますし。

(『梅松論』でも「遠慮の勇士」「賢才武略の勇士」、『増鏡』では「心猛くすくよかなる者」と正成はどこでも評価が高いのですが、『太平記』のそれは別格な感じです)

そんな彼の特徴としては、かなりの合理主義者であることが挙げられるでしょう。

1336年尊氏が九州に逃げたとき、勝利に喜ぶ公卿たちをよそに、新田義貞を誅伐して尊氏と手を結んだ方が得策だ、交渉のための使者には自分が立とう、と後醍醐天皇に進言した。

そんな『梅松論』のエピソードからもそれが窺える訳ですが、じゃあなぜそこまで見渡せる視野を持った彼が勝算のない戦いに挑んだのか、彼は何に殉じたのかってことが気になって仕方ありません。
【人物紹介】護良親王
護良親王(南北朝期の皇子)イラスト

護良親王(もりよししんのう)1308-1335(延慶元~建武二)

父は後醍醐天皇。母は民部卿三位。第三皇子。

11歳で延暦寺梶井門跡の一門徒、大塔に入室。
「大塔宮」と称す。

後醍醐天皇が隠岐から脱出すると
山門の僧兵を率いて六波羅軍と戦うも敗北。

楠木正成の赤坂城に逃れ、さらに熊野や高野山などに潜行。

1332年還俗して護良と改名。
吉野で挙兵し、令旨を発行して各地の反幕府勢力の挙兵を呼びかけた。

建武新政下では征夷大将軍、兵部卿となった。
しかし足利尊氏と対立、その讒によって鎌倉の東光寺に幽閉される。

1335年中先代の乱の際に、尊氏の弟直義の部下淵辺義博によって殺害された。
享年28歳。 

◆三日月的考察◆

倒幕からわずか2年後で暗殺された事から、
悲劇の皇子として名高い護良親王。

その失脚の理由は本によってさまざまに推理されています。
  1 護良親王がその子興良天皇を帝位につけようという
陰謀を巡らしていたのが発覚したため (「保暦間記」)
 
  2 「護良親王が帝位を奪うために兵を集めている」と
尊氏が阿野廉子に密告、
     それを聞いた天皇が怒ったため (「太平記」)
 
 3 天皇が護良親王を使って尊氏を暗殺しようとしたが失敗、 
    それで罪を護良親王にかぶせたため (「梅松論」) 
      
 護良親王が足利方に引き渡された事を考えると、
梅松論の記述が一番妥当かと思われます。
【人物紹介】畠山国清
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畠山 国清(はたけやま くにきよ) 生年不詳-1362?(貞治元・正平17)

基氏の関東執事。父は畠山家国、その嫡子。

足利尊氏・直義に従い、功により紀伊守護。
観応の擾乱では直義に従うがのち尊氏に従い、直義を駿河に破る。

1353年、関東執事となって足利基氏を補佐。
1358年、新田義興を武蔵矢口渡で誘殺。

翌年上洛し河内の楠木正儀を破り、仁木義長を東走せしめたが在京の諸将と対立して鎌倉に帰る。
1361年鎌倉を追われ伊豆で挙兵するが、1年近くのち基氏が派遣した鎌倉勢により鎮圧される。

その後は大和で死んだと伝えられるが、不詳。

◆ 三日月的考察 ◆

観応の擾乱で直義から尊氏に鞍替えした事で、関東執事の座を手に入れたヒト。

なぜ彼が執事に選ばれたのかについては、鎌倉御家人の鏡とされる畠山重忠の名を継ぐ国清を執事にする事で、関東の伝統的な武家社会をまとめようとする狙いがあった、とも言われています。

しかし国清の強圧的.・支配的な態度は、それまでの直義や上杉憲顕が行っていた自主性を尊重する政策に慣れていた武士達に大きな反発を買い、没落する事になります。
   
なお『太平記』では没落後、国清兄弟はのたれ死んだとありますが、ウソです。
弟たちはその後、みな幕政に復帰してます。
それを考えると、国清の処分は個人にしか及ばなかったのかも。
畠山は同族でしかも名族だから、処分も軽いものだったのかもしれません。
【人物紹介】上杉能憲
上杉能憲(南北朝の武将)イラスト


上杉 能憲(うえすぎ よしのり)1333-1378(正慶2・元弘3~永和4・天寿4)

足利氏満の代の関東管領。
父は上杉(山ノ内)憲顕。のち叔父の上杉(宅間)重能の養子。
通称三郎。子なし。
 
1349年に養父の上杉重能が高師直のために殺されたのち、実父憲顕を頼った。

観応の擾乱では父と共に足利直義に従い、51年正月には甲斐須沢城に高師冬を攻めて滅ぼした。

ついで兵を率いて上京し、足利尊氏.・高師直らと戦い、2月26日に師直ら高一族を武庫川で殺害。
このため尊氏に流罪に処せられたが、やがて許された。

1368年、父の上杉憲顕の死により、従兄弟である上杉朝房と共に関東管領に任ぜられる。
1378年没する。享年46歳。

◆三日月的考察◆

忠臣蔵のせいで誤解されがち?ですが、実際に師直を殺害したのはこの人です。
理由は義父重能の敵討ち。この時わずかに19歳。

それでただちに流罪に処せられますが、その後はどうやら憲顕らと合流し、上杉方として尊氏と戦っていた模様です。 

余談ですが上杉朝房とは従兄弟で義兄弟。
二人とも観応の擾乱で養父に当たる(?)重能・朝定を亡くし、憲顕の死後共に管領になり、しかし子供はいなくて管領職は弟に譲ってます。

(通称まで同じ三郎。つくづく似た者同士)
【人物紹介】上杉朝房
上杉朝房(南北朝の武将)イラスト

上杉 朝房(うえすぎ ともふさ)生没年不詳

犬懸上杉氏。足利氏満の代の関東管領。
幼名幸松丸。通称三郎。

父は上杉(犬懸)憲藤(憲顕の弟)、母は朝定の姉妹。
妻は上杉憲顕の娘。子供なし。

父の上杉憲藤が1338年に北畠顕家と戦って摂津で討死した時はまだ幼少だったため、弟幸若丸(朝宗)と共に家臣の石川入道覚道に養育された。

観応の擾乱では憲顕と共に直義党となり、1363年上杉憲顕と共に幕政復帰。
1364年上総守護、ついで1366年信濃守護。

1369年憲顕の死後,従兄弟能憲(よしのり)と共に関東管領となり、「両管領」と呼ばれた。

1370年関東管領を辞任。
1377年ごろ上京し、91年に京都の四条で没したと言われるが不詳。

◆ 三日月的考察 ◆

父上杉憲藤の没年から、大体1333-37年生まれ。
その名前から推測するに、叔父の上杉朝定の庇護下で成長したかと思われます。

そのためか上杉氏の中でも厚遇され、1343年の天龍寺の記事で、若年ながら行列に参加していることが「太平記」に記されてます。
また、上杉憲顕の死後、その子能憲と並んで管領になるなどもしてます。

戦に関しても、1368年に憲春と共に武蔵平一揆に乱を鎮定するなど活躍していますが、彼はまだ30代前半の若さ(推定)で、能憲などからの再三に慰留にも関わらず、関東管領を辞して上洛しまいます。

その上洛前に僧の儀堂周信に、「戦の罪は誰に帰するのか」などと聞いていたという事が義堂の日記『日工集』に載っています。
あるいは常世が嫌になって関東管領の職を手放したのかもしれません。

彼には子がなかったため犬懸氏は弟朝宗が継ぎますが、その子の禅秀が鎌倉公方と戦って敗死(上杉禅秀の乱)、この家は衰えます。
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