南北朝時代~室町初期のファンサイト。人物紹介、関連書籍、史跡など。
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【人物紹介】上杉朝定
上杉朝定(南北朝の武将)イラスト

上杉 朝定(うえすぎ ともさだ)  1321-1352(元享元~文和元・正平7)

父は上杉(扇ヶ谷)重顕。憲顕の従兄弟。妻は足利尊氏の姪にあたる。

幕政初期から京都にあり、37年丹後の守護となり、また重能と共に幕府の引付頭人を務めた。

一貫して直義派で、観応の擾乱では直義に従って尊氏と戦ったが、両者の和解にも尽力した。

しかし同年7月、両者の和が破れると再び直義方に属し、北陸各地を転戦.。

1352年3月に信濃国御原で没した。享年32歳。

戦死・病死の両説がある。

◆ 三日月的考察 ◆

この人は知名度全然ないですけど、妻が尊氏の姪(具体的な人名は不明)だからか、上杉では嫡流に近かったのか、あるいは朝定個人の官吏としての資質が優れていたのか、かなり若い頃から(20代前半)引付ト頭人を務めるなど、政務の中枢近くで活躍しています。

観応の擾乱後、直義を追う形で死去。まだ30代でした。 

いずれにしろ、早世しなければかなりの地位を得たことは間違いないだけに、尚更その早い死が惜しまれます。
【人物紹介】上杉憲顕
上杉憲顕(関東管領)イラスト

上杉 憲顕(うえすぎ のりあき)  1306-1368(徳治元~応安元・正平23)

関東執事、関東管領。山ノ内上杉家の祖。憲房の子。
足利尊氏・直義とは従兄弟に当たる。

1340年高師冬と共に関東執事に任じられ、義詮次いで基氏を補佐した。

観応の擾乱では直義党に組し、51年尊氏方の師直の養子師冬を甲斐に滅ぼし、
1352年幽閉中の直義が死ぬと、尊氏と戦って信濃に敗走した。

以後北国に隠棲すること10年ののち、1363年鎌倉公方基氏に呼び戻され関東管領となり、以後氏満の代まで続いた。

1368年上京中に武蔵平一揆の乱を聞き帰還して征討するも、足利の陣中で没した。
享年63歳。晩年伊豆に国清寺を建立した。

◆ 三日月的考察 ◆

憲顕は上杉重能と違い、幕政初期から主に東国で関東執事、また越後・上野両国の守護として活躍しています。

そんな彼は、観応の擾乱による直義死後10年に渡って幕府に背反するなど、大の直義党でした。

直義の方でも、かつて憲顕が越後に派遣された際、憲顕の領国経営を絶賛する書状を送っているなど、信頼は並々のものではなかったようです。

直義の甥基氏もまた彼の統治能力を買っていたのでしょう。
基氏は執事畠山国清を追放したあとに憲顕に執事要請をして鎌倉に戻します。

しかしその時憲顕は法体で、そのため前例がないと幕府との交渉は難航したそうですが、基氏は最終的に憲顕を執事とすることに成功させます。


(基氏の憲顕を招く手紙に「この事は多年の念願」とあって、どれだけ基氏がこの日を待っていたかがうかがえます)

憲顕は基氏の乳母子らしいですしね。(「鎌倉大草紙」。でも傍証を私は得てません)彼のあと、関東管領は上杉氏の独占することになり、東国での覇権を確立するのでした。
【人物紹介】上杉重能
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上杉 重能(うえすぎ しげよし) 生年不詳-1349(?-貞和5・正平4)

上杉憲房の養子(勧修寺別当宮津入道道免の子)。
宅間上杉氏の祖。尊氏・直義とは従兄弟に当たる。

建武新政期には鎌倉御所(成良親王)の関東廂番を務める。
また尊氏のもとで伊豆守、武蔵守護代。

足利幕府下では伊豆守護、引付頭人を歴任、足利直義の股肱となって尊氏の執事高師直と争う。

さらに諸将が尊氏・直義両派に分かれて対立する中で師直に謀られて、畠山直宗、僧妙吉と共に越前に流されて、49年12月に越前国江守庄で殺された。

◆ 三日月的考察 ◆

「上杉重能なれば家門の一人でことの次第もよくわかり、 公卿の血族だから帝に対する心得もある。重能を置いて外に適任者はいない」

これは1333年、高氏が倒幕のために後醍醐天皇のいる船上山へ使者を遣わす時に、足利直義が言った言葉です。

幕府設立以前から彼の能力が直義に買われていたことの表れなんでしょうね。

1335年に、朝敵と呼ばれることを恐れて尊氏が「出家する!」と寺に篭った時に「たとえ出家しても許さぬ」という偽勅書を作らせて、尊氏に見せたのもこの人でした(「太平記」)

幕府開設後は直義の腹心として政務面で活躍しますが、観応の擾乱に流罪、その地で殺害されてしまいました。

彼のあと詫間上杉氏は、憲顕の子能憲が継ぎます。
【人物紹介】足利氏満
足利氏満(二代鎌倉公方)イラスト


足利 氏満(あしかが うじみつ)1359-1398(延文4・正平14~応永5)

二代目鎌倉公方。足利基氏の嫡男。幼名金王丸。

父基氏の死により9歳で鎌倉公方を継ぐ。(執事は引き続き上杉憲顕)

1379年、幕府で康暦の政変(細川頼之と有力守護との対立)が起こると、当時21歳の氏満は京都に兵を送り、将軍義満に変わろうとする野心を抱いた。

しかし執事上杉憲春(憲顕の子)の諌死でとどまり、以後関東平定に力を注いだ。
小山氏の乱を制圧し、明徳の乱後は奥羽をもその支配化にいれた。

また父基氏と同じく、禅僧儀堂周信に帰依。
4代の鎌倉公方の中でもっとも長く治世を行い(32年間)、
鎌倉府の権力の安定化に貢献した。1398年40歳で死去。

<三日月的考察>

「犬猿の仲」と評された義満とは一歳違いのいとこに当たります。

「東国では並ぶものなき権力を持つ鎌倉公方が、なぜ遠く京都の将軍に従わなければならないのか?」

観応の擾乱の悲劇を実際に知らず、生まれながらに東国の主の地位を継いだ氏満が、そう感じ野心を募らせたのは仕方ないのかもしれません。

でもでもお父さん(基氏)は草葉の陰で泣いていたのでは・・?親の心子知らず。

余談ですが、憲春の諌死に驚いた氏満は、野望を抱いたということを後悔したといいますが、その思いは子の満兼や孫の持氏に引き継がれました。

そして持氏の代に反旗を明確に翻し幕府に敗れ、ここに鎌倉公方は途絶えることになるのです。
【人物紹介】足利義満
足利義満(室町3代将軍)

足利 義満(あしかが よしみつ)1358-1408(延文3・正平13~応永15)

室町幕府第3代将軍。
父は義詮、母は義詮の愛妾、石清水八幡別当善法寺通清の娘紀良子。
幼名春王丸。正室は日野業子。

1368年、父義詮の死を受けて、将軍職を継ぐ。
管領細川頼之の補佐を受け、78年京都室町に花の御所を営む。

1392年南北両朝を合一させる。
また土岐・山名などの強力な守護を制圧して幕府権力を確立した。
また公卿としても官位を太政大臣に進み、1394年の出家後も権力を握った。

1397年北山第に別荘として金閣を建てた。1408年死去。

<三日月的考察>

4歳の時、摂津の琵琶塚辺の景観が気に入って、「この土地を担いで京都へもって行け」と側近に命じたという、生まれながらの王者です。

 彼の時代に南北朝合一がなり、政局的にも安定し、室町時代の最盛期が現出しました。
 
ところで、彼には「皇室乗っ取り」の野望があったと言われています。

自身を法皇に位置付けて、子の義持を将軍に、義嗣を天皇に・・・という事らしかったのですが義嗣の元服の10日後に、義満は死去。
野望は露と消えました(そのため暗殺説もあります)。

もしそれが事実で実行されていたら、皇室の歴史はがらりと変わっていたのでしょうね。
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