南北朝時代~室町初期のファンサイト。人物紹介、関連書籍、史跡など。
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【人物紹介】高 師泰
【人物紹介】高 師泰
高 師泰(こう もろやす)  生年不詳-1351(?~観応2・正平6)
高 師泰

足利尊氏の執事、高師直の弟。

兄師直と共に尊氏に従う。
1336年には新田義貞を越前金崎城に攻めてこれを落としいれ、その後東国に転戦して上洛。

1348年には兄師直と共に楠木正行を河内四条畷に破る。

1350年尊氏・直義が不和となるや、直義党の足利直冬を攻めて中国を転戦。

翌年足利兄弟の講和成立の際、将士に憎まれ、兄と共に摂津武庫川で殺害された。

◆ 三日月的考察 ◆

高師泰は兄師直とセットで活躍、主に軍事面で勇名(悪名ともいう)を馳せた人物です。

侍所頭人を務め、執事である兄師直と共に幕府を支え、時には尊氏を凌ぐほどの専横を
見せました。

彼個人のエピソードもばさら的なものがほとんどです。

公家の侍二人が、人夫たちが酷使されている山荘造営の現場を通りかかって
 「あんなに痛めつけなくても」と非難すると、それを聞きつけた師泰が
 「人夫が可哀想なら奴らを使え」と二人を呼び戻して終日責め使った、などです。

でも師直と同じく、「太平記」でのイメージが先行しているのが実情。ちょっと可哀想かも。
【人物紹介】高 師直
高 師直
高 師直(こう もろなお)生年不詳-1351(?~観応2・正平6)

足利尊氏の執事。高師重の子。

南朝方と戦い、北畠顕家・楠木正行らを敗死させるなどの功があった。
幕府創設初めから枢機に参画して威を奮う。

1349年足利直義・上杉重能らと対立、重能を殺し直義を追って政権を一手に握ったが、1351年直義党の将士に敗れ、落髪して帰順。

1351年2月26日、帰京の途中、武庫川(兵庫県)で一族と共に上杉能憲に殺された。

◆ 三日月的考察 ◆

伝統的な権威を無視する、急進的で悪逆非道の典型的人物として「太平記」に描かれている彼は仮名手本忠臣蔵の影響もあって、すっかり悪役のイメージがこびりついてますね。

(それでなくても宮方ファンにとったら、顕家・正行を討ち取ってる時点で万死に値するのかな?)

それはさておきエピソードの多い人です。

佐々木高貞(塩谷判官)の美貌の妻に横恋慕して高貞を自害に追いこんだりとか、吉野の皇居や仏閣を焼き討ちしたりとか、「天皇なんて木や石で作ってしまえばいい」と言ったりとか。書ききれない。(全部悪名なんですけどね)

でも幕府創立期において将軍執事として庶務を統括し、その武力を持って南朝方の力を削いだ実績は、もうちょっと評価されてもいいと思います。
【人物紹介】楠木正儀
楠木正儀(南北朝の武将)イラスト

楠木 正儀(くすのき まさのり) 生没年不詳

南北朝時代の武将。
楠木正成の三子。楠木正行の弟。帯刀。左衛門尉。

兄正行の死後、河内を拠点として楠木を率い、また南朝方の武力の中心として活躍する。

1350年12月、足利直義が南朝に和議を申し入れた際、両朝合一に尽力したが結局実現しなかった。

1352年閏2月、足利尊氏が南朝に帰順したのを機に北畠顕能、千種顕経らと共に京都に進撃、一時占領した。

以後、1353.55、61年にも京都の一時奪取に成功している。

1360年、細川清氏らと河内、和泉に戦うも、河内赤坂城が落城したため後退を余儀なくされた。

1367年、南北両朝の和をはかって成らず、1369年、幕府管領の細川頼之を介して足利方に降った。

1382年、細川頼之の没落にともない、再び南朝方に帰った。

1388ー89年のころ没したといわれている。

<三日月的考察>

楠木正儀は『太平記』では、父や兄が絶賛されている陰でけちょんけちょんな扱いを受けている
可哀想な人です。 

『太平記』巻37には南朝方が京都を占領し、正儀が敵の佐々木道誉の部屋に踏みこんだ時、あたかも貴賓を招くような酒肴を用意して逃げました。

その道誉の行為に情けを感じた正儀が、京都を撤退する時に道誉の家を焼くどころか、前にもまして上等な酒肴や秘蔵の鎧、白銀づくりの太刀などを残していった...っていう正儀の器量ぶりを表す粋なエピソードがあるのです。

しかし『太平記』はここで正儀の太刀と鎧を奪った道誉の老獪ぶりを誉めてるんです(涙)

でも京都の幕府と目と鼻にある河内で、討たれることなく数十年に渡って一族を守り、南朝を支えてきた功績は決して小さいものではないと思われるのですが。

彼は父、兄以上に現実即応型の人間と思われ、それだけに南北両朝の和睦の必要性を痛切に感じていたのではないかと考えられます。

そのためたびたび和平に際して尽力しています。
(彼主導のもとでは結局実現しませんでしたが)
【人物紹介】楠木正時
楠木正時(南北朝の武将)

楠木 正時(くすのき まさとき)  生年不詳-1347(貞和4・正平3)
南北朝の武将。楠木正成の次子。楠木正行の弟。二郎。

兄正行と行動を共にし、各地に転戦。
1348年正月、正行と共に足利尊氏から派遣された高師直・師泰軍を討つため吉野の行宮から出陣。

河内四条畷で激戦したが及ばず、須々木四郎という者に眉間に矢を射られ、兄正行と刺し違えて自害した。

<三日月的考察>

正行、正儀の記述に比べるとこの正時の個人的なエピソードは少なく、敗死した四条畷の合戦に関するものがほとんどです。

上山という者が師直の身代わりとなった事を知らないまま討ち取った正行が、その首を大喜びでその首を投げては受け止めてとしていると正時が走り寄って、

 「何をなさる、せっかくの首が損じてしまいます。
  まず旗の蝉本につけて、敵味方に見せましょう」


と提言した所と

最期に眉間、のど笛の少し外れた所を射られるといった壮絶な姿で、兄正行とさし違えて死んだ、という所ぐらいでしょうか。

享年は一説には21歳とも言われてますが、不詳です。
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